インタビュー

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【 戦後72年 物流トップなに思う 】

いつも心に金華山 

2017年05月02日

西濃運輸 神谷 正博 社長

 岐阜市の郊外で育った。遊び場は神社の境内や小学校のグラウンド。木に登ったり仲間と野球をしたりと、家の中より外が好き。そんな遊び場も縁日となれば雰囲気が一変。氏神様の若宮様や金毘羅様。子安神社などの縁日が印象的。珍しい玩具が並び、子ども心にわくわくした。

 小学校5年だった昭和39年には東京オリンピックがあった。マラソンの円谷幸吉選手が記憶に残っている。翌年に開催された岐阜国体では、小学校ごとに踊りで参加。配られた小冊子「フォットギフ」の裏表紙には、西濃運輸と田口利八名誉会長の写真があった。
 中学に入って陸上を始めた。得意は400m走。だが、学校ではトップを取れても県大会では4位。上には上がいると思い知らされた。自分の限界を感じ、高校1年生の時に陸上を止めた。世間は広いと痛感した。
 自分の目でいろいろなものを見てみたいと、大学は東京を選んだ。中野区に住んで東西線で通学していた。実際に住んでみて、東京の都会的な良い面と、逆の面を知った。
 一方で心の中には、常に故郷を象徴する山「金華山」と清流「長良川」があり、「仕事は故郷で」という気持ちが強まり、西濃運輸に入社することに。入社当時は荷主企業で、品質活動(=QC)が盛んだった。多くの荷主に話を聞き、物流は製造業の最終工程との認識を持ち、品質を求める理由を納得した。
 転勤で北海道に行ったことは貴重な経験になった。真冬に過酷な環境で働くドライバーを見て、話を聞くうちに、「この人達のために働く」という気持ちが強くなり、人のために働くことを意識するようになった。(文責・佐藤 周)