インタビュー

【 戦後72年 物流トップなに思う 】
米兵とは顔なじみ

2017年07月25日
第一貨物 武藤 幸規 社長
昭和19年に生まれた。物心ついたのは東京だった。会社の発展期、増資に次ぐ増資の時期で、家計は厳しかった。
当時は食べ物も少なく、父親(幸雄氏)がご飯にバターとしょうゆをかけて食べるのが、おいしそうだったのを覚えている。
当時会社は、ワシントンハイツ(東京・代々木にあった米軍関係の施設)のメンテナンスを手掛けていて米軍関係のパーティーなども家で開かれていた。白いシートに土足で入ってくるのが印象的だった。ある時、家の敷地内に住む米兵が、スポーツカーをアメリカから持って来た。道路に止めてあったその車にくぎで傷が付けられていて、怒り心頭の米兵がライフルを並べたこともあった。
幼稚園は一駅先まで通っていた。1人で電車に乗って通っていたが、初日に降りる駅を間違えて迷子に。家に帰ると母親に抱き付いて泣いた。新設の公立中学校から芝学園(現・芝中学校)に進学。大学は慶応大学だった。慶応に入ったのは、家に寄宿していた親戚に憧れたからだ。
米国の作家アーネスト・ヘミングウェーを好きになったのも大学の頃。『日はまた昇る』を読んでからだ。サラリーマン以外の仕事に就こうと、作家を目指したが才能がないと思い挫折した。いまでも人のしぐさや感情の動きを、携帯電話で文字入力してスケッチすることがある。
40歳で太平興業の社長に就任。数年はがむしゃらだったが、慣れてくるにつれて、勉強や経験を積むことができた。いまの知恵と経験で、体力があればもっと大きなことができるのにと感じる。これから先の10年の代わりに、これまでの5年をやり直せればと考えることもある。(文責・佐藤 周)