インタビュー

【 戦後72年物流トップなに思う 】
駅の大時計を見て育つ

2017年06月13日
岡山県貨物運送 安原 晃 社長
昭和19年に岡山駅前、いまの高島屋の隣の土地で生まれた。生まれた時は、仮死状態だったと聞く。母親が食堂を経営していて食べ物には不自由しなかった。
20年、岡山市は大空襲に見舞われた。家族で駅近くの防空壕に逃げたが、背中に背負っていたはずの私がいない。死んだものと諦めていたが、うまく溝に落ちて、助かっていた。岡山駅周辺が遊び場。いまイオンがある所は、当時は原っぱでチャンバラや石投げをしていた。旧駅舎の大時計が印象に残っている。
小さい頃から機械いじりが好き。家の柱時計を分解したり、材木を拾い集めて模型飛行機を造ったりしていた。大好きなカントリーミュージックに出会ったのは中学時代。米軍向けの放送を聴き、好きな曲の歌詞を書き留めていた。中でもエルビス・プレスリーに憧れた。
明治大学に合格し上京、荻窪の朝夕食付きの下宿「四季荘」で暮らした。授業はそこそこに、麻雀と喫茶店通いの日々。
昭和42年に入社。当時はいざなぎ景気で、毎日午前様。社員は現場も事務も仲が良く、ちゃんづけで呼び合うような関係。14年間総務経理畑を歩いたが、新見健元社長に渉外課長に抜てきされた。
当時のそごうデパートの担当者は、関西大学相撲部出身。酒、仕事、遊びと全て教わった。大丸の担当者も思い出深い。百貨店は消費者向けで品質要求も厳しい。仕事を通じ鍛えられた。
子どものころから友人には、本当に恵まれた。胸襟を開くことで、信頼関係が生まれ、互いの人格が磨かれる。多くの友人に囲まれて楽しく人生を過ごせることが幸せだと思っている。(文責・佐藤 周)