インタビュー

【 インタビュー 】
頑張った人が成功つかむ 目的意識、何より大切

2016年10月04日
松本 零士さん
宇宙戦艦ヤマト、銀河鉄道999など数多くの名作を世に送り出してきた松本零士さん。時代を超えて愛される作品を描き続けられたのは、「目的意識を持ち選んだ道を進んできた結果」と話す。仕事を通じて目的を成し遂げるのはトラックも同じ。「引き受けた以上は交通安全を守りつつ、必ず荷物を届ける責任を果たしてほしい」と業界にエールを送る。
――60年にわたり漫画を描き続けている。
松本 18歳で上京。機関車の片道切符を買い、画材を抱えて九州から丸一日かけてやって来た。この体験が『銀河鉄道999』の基になっている。駆け出しの頃は編集部から喫茶店に呼ばれ、突然連載の打ち切りを告げられることも。でも漫画家は自分で選んだ道。死んでも帰らないと覚悟した。どんなに苦しくても諦めるわけにはいかなかった。
――仕事がなく私生活でも苦労が。
松本 上京後は本郷の「山越館」に下宿していたが、連載を打ち切られたら食うものもない。風呂にも入れず、ある日〝インキンタムシ〟(陰部にできる皮膚病)を患ってしまった。恥ずかしくて誰にも相談できない。途方に暮れていたら、新聞で白癬(はくせん)菌が原因と知った。
――これが転機に。
松本 白癬菌なら人前でも言える。すぐに赤門前の薬屋に飛び、大声で「薬をくれ」と頼んだ。すると店主は「お前もタムシか。言えば治るんだ」と。実はこの体験を『男おいどん』に生かした。作中で白癬菌は治ることや薬の買い方を思い切って題材にした。
俺の旗の下に生きろ
――男おいどんは大ヒット作の一つ。
松本 白癬菌は伝染病で、多くの人が困っていた病気。段ボール5~6箱分の手紙をもらうほど反響が大きかった。中には女性から「私の彼が元気になった」と書かれた手紙も受け取った。白癬菌の経験は、漫画を描く上で重要なことを教えてもらう機会になった。
――重要なこととは。
松本 「何のために描くのか」という目的意識に目覚めた時、初めて作品は受け入れられる。読者に身近なものから共感を得ることがいかに大事か。これを知ったからプロの漫画家になれた。漫画『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』の言葉に「俺は俺の旗の下に自由に生きる」という言葉がある。人ではなく俺の旗という言葉を使ったのは、人は自分の目的意識のために道を選ぶから。
――目的意識はどの職業でも共通する。
松本 どんな道に進んでも生涯貫かなければ何事もうまくいかない。トラックの場合は何を積みどの道を走るのか。そして仕事を引き受けた以上は必ず届ける必要がある。自分で選んだ仕事なら人に文句を言わず、責任を持って全うしなくてはいけない。
体験が作品支える
――作品には仲間の絆が強く描かれている。
松本 同じ夢を持った仲間たちと仕事をしてきた。手を携え、肩を組み、未来に向かって進んできたから、作品でも(表現が)極端になってしまう。目標は一人で立てるが、性別や役職に関係なく人には人の道がある。それには敬意を払わなければならない。歯を食いしばり頑張った人間だけが成果を残す。心変わりが激しかったり、人の邪魔をしたりすれば必ずどん底に落ちる。
――メッセージ性の強さも特徴。
松本 思想、宗教、信条、民族感情は常に頭に置いて描いてきた。敵同士でも同じ思いを持っている。父は戦時中、南方戦線で戦った戦闘機乗り。交戦の際、相手も死ねば悲しむ家族がいるとためらいながら、心を鬼にして射撃した話を聞いた。戦後にも家族を失った帰還兵が自殺するなど、全てに命があることを目の当たりにしてきた。
――多くの体験が作品を支えている。
松本 体験は物を言う。殴られれば殴られたショックを描ける。転べばその痛さも描ける。これまで機関銃掃射や飛行機の操縦、アフリカや中南米の訪問といろいろなことを経験し、多くの人から話を聞いてきた。これらの体験は常に頭の中に蓄えてある。
――どんな体験が作品につながったのか。
松本 例えば宇宙戦艦ヤマトの構造をあれだけ精密に描けたのは、下宿先で重巡洋艦「最上」の副艦長だった猿渡中佐に、戦艦「大和」の設計図をもらうことができたから。またヤマトの劇中に流れる音楽は、戦争で兄を亡くした同級生からもらったベートーベンのレコードの影響を受けた。『英雄・葬送行進曲』のような雰囲気の音楽を依頼し、あの曲が生まれた。
トラックは大変な仕事
――ところでトラックとの関わりはどうか。
松本 トラックを運転した経験はあるが、本当に大変な仕事。どんな天候でも目的地まで責任を持って荷物を届けなければならない。貨物の積み降ろしもきつい作業だ。車の性能で苦労もあるのではないか。
――トラック事業者に業務を頼んだ経験は。
松本 オフィスの庭に一本のタワーがある。朝日新聞西部本社にあった通信タワーの航空警戒灯で、本社を新設する際に知り合いを通じて一部を譲り受けた。これを大型車で九州から東京まで運んでもらった。
――トラックで。
松本 ドライバーも一日がかりで運び、相当疲れたのだろう。到着後はへたばってしばらく動けなかった。私は福岡県久留米市出身の小倉育ち。通信タワーの航空警戒灯は子どもの頃から見てきた〝希望の光〟で、自宅に届いた時は嬉しかった。いまも座り込んで動けなくなったドライバーの光景が目に焼き付いている。
――現在は遊覧船、鉄道などのプロデュースも手掛けている。
松本 遊覧船では「ヒミコ」「ホタルナ」という二隻が隅田川を運航している。デザインは私、基本構造や材質、機能は弟が設計した兄弟合作の船。乗り心地、安全性には自信がある。三菱重工業長崎研究所の主管だった弟には、機械工学の世界で活躍するという、私のもう一つの夢をかなえてもらった。兄弟は多い方が良い。夢をバトンタッチできる。
――将来はトラックにも携わってほしい。
松本 ぜひやってみたい。遊覧船ヒミコは操縦席を飛行機のコックピットのようにデザインした。トラックもドライバーの安全を第一に、視界が360度見回せて大量の貨物を輸送できる車両を開発したい。でも見た目は美しく、きれいなものでないとダメだ。
――そういえば作品でも技術をテーマとする内容が多い。
松本 宇宙戦艦ヤマトに登場する液晶パネルなど、当時描いたものがいつの間にか現実になっている。機械はユーザーがしっかり使えば感情がこもる。トラックも設計者の心が込められている。全ての文明には目的意識と心があり、だから設計者に敬意を払わなければならない。
記者席 伝説との出会い
漫画界を代表する巨匠の一人。応接室にその姿が現れた瞬間、記者の緊張はピークに達した。そんな空気を感じたのか。一言目に出たのは「いやー、最近は外出続きで眠たくて」。目をパチパチさせながら話す姿に自然と笑いが起きた。
取材中、何度も驚かされたのが時折飛び出す有名人の話。石ノ森章太郎氏、赤塚不二夫氏…。特に「ガキの頃、明石(兵庫)の映画館で同じ時間に、手塚治虫さんと同じアニメ映画『くもとちゅうりっぷ』を見て」。本人はさらりと話すが、伝説の漫画家とのエピソードにぼうぜんとするしかなかった。
『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』、『銀河鉄道999』など多くがまだ完結していない作品。最後まで描き切ることが使命という。「でもいまはその時ではないよ」とニヤリ。最終話を見たいような、まだ夢を追いたいような。ファンには答えの出せない難問といえそうだ。
(経歴)
まつもと・れいじ=昭和13年1月25日生まれ、78歳。福岡県出身。県立小倉南高校卒。高校在学中に「蜜蜂の冒険」でデビュー。46年に連載した「男おいどん」が大ヒットし、「宇宙戦艦ヤマト」「宇宙海賊キャプテン・ハーロック」「銀河鉄道999」など代表作多数。旭日小綬章、紫綬褒章、フランス芸術文化勲章(シュヴァリエ)を受章。(小林 孝博)