インタビュー

メインビジュアル

【 戦後72年 物流トップなに思う 】

国定公園が遊び場 

2018年03月06日

いすゞ自動車 片山 正則 社長

 昭和29年、山口県光市で生まれた。当時の人口は4万人ほどで、風光明媚(めいび)な土地だった。
 国定公園の中にある国立山口大学教育学部付属光小・中学校に入学。学校から家までは、山を通るか浜辺を通るか。学校の前は、瀬戸内海の象鼻ヶ岬の湾内で、波が全くない。悪がきには格好の遊び場だった。
 とにかくやんちゃ。小学校の池の水を抜いたり、歴史ある寺のお堀で魚を釣ったりと、いたずらもした。小学5年の時町内会の運動会で、市立の小学校に通う友達と再会。リレーのランナーだったがほっぽり出して、海にサザエ採りにいった。捜索隊が出て大騒ぎになったらしいが、われ関せず。サザエを採って喜んで帰ったが、家では父がカンカン。玄関前で、母に入らない方がいいと止められた。
 中学校3年の時に広島大学の付属高校を受験しようという目標を立てた。必死で勉強して合格したが、気が変わり地元の光高校に入学した。大学は東京大学、東京に来た当時は、渋谷駅前では再開発のまっ最中。地面に鉄板が敷いてあり、「土がない」との印象を受けた。地元にも縁がある鉄鋼業界に進もうと思っていたが、就職の時は鉄鋼不況。自動車にも興味があり、いすゞ自動車に入社した。
 入社後は鋳物関係の生産技術畑で12年過ごした。川崎工場で勤務し、現場の人にもまれて育った。人間関係の濃い家族的な雰囲気の中で、かわいがってもらった。入社して驚いたのは当時の本社と工場の風呂。木造の旧・社屋は、〝大森の地価を下げている〟といわれたほどの古さ。「失敗した」と思った。工場の風呂は、真っ黒。底は砂でざらざらで、最初に入る時は勇気が必要だった
(連載終わり)