インタビュー

【 戦後72年 物流トップなに思う 】
江藤淳の講演に衝撃

2017年10月24日
日本貨物鉄道 田村 修二 社長
森鴎外で有名な島根県津和野町で、昭和23年に生まれた。父が国鉄の従業員で、米子、浜田、益田など山陰地方をぐるぐると回った。当時キャラメルのおまけで、野球カードがついていた。小遣いは、満足にもらえない時代。磁石でくず鉄を集めて、売ってキャラメル代にしていた。
高校は、益田高校という自由で自立性を重んじる学校。アメリカに興味があり、ESS(英会話クラブ)に所属していた。世の中は高度経済成長で、人の動きが活発。当然という気持ちで、東京を目指した。浪人時代は、駿河台予備校の寮に入り、船橋市から御茶ノ水まで古い総武線で通っていた。
大学は、東大。紛争まっただ中で授業がない時代。そんな時に、新宿の紀伊国屋書店でやっていた江藤淳の講演に偶然出会った。後に『批評家の気儘(まま)な散歩』にまとめられた講演で、非常に感銘を受けた。そこで片端から彼の著作、発言を追った。神保町で雑誌や新聞も集めた。
彼は夏目漱石の偶像を打ち砕いた。そういう物の見方に惹かれた。個人的には田舎の秀才が都会に出て、さまざまな挫折を経験し、「絶対や完璧はない」との思いに至り、人間の幅が広がった。
就職先は国鉄。労働組合が強い時期で、入社してしばらくの関心は組合問題だった。配属されたのは東京南局。マル生運動の後遺症がひどく、現場は荒廃していた。昭和55年、大阪で貨物課長になり初めて物流に携わり、以後貨物一筋の人生となった。その後国鉄改革では、貨物会社設立に寝食を忘れて取り組んだ。
自分を客観的に見ることが、楽しく生きていく秘訣だと思う。「頭の切り替え」が大事だ。